・回向院の春相撲はかねて記しおきたる如く昨日をもって開場せり、案の定早春の事なれば観客の気入りもひとしおにて初日ながらおよそ千四五百もありしなるべし。
・(中入前)芝田山に取倉は取倉の勝。柏木に綾浪は綾浪の勝。それより幕の内に移りて柏戸に和田ノ森は柏戸の勝。
・人気沢山の上ヶ汐に井筒は、井筒急に立上りしも上ヶ汐はオット承知と難なく敵を引受け、三ツ四ツ突掛けながら相撲にせんと左を差して「寄来」る途端「巻落」して見事に井筒の勝は案外の出来とや申すべし。
・島田川に常陸山は、仕切も見事に立上り突掛けながら「左四ツ」となりし時、島田川は「コジリ」てなおも右を差さんとせしが、常陸山は猶予をあたえず「押切」て勝。
・千羽ヶ嶽に千勝森は「ツリ出シ」て千羽ヶ嶽の勝。
・鞆ノ平に中津山は至極念入りて、中津山が相撲を大事にせんとするよりちょっとは立たざりしに、鞆は「カタク」なりつつやがて立上り、中津が得意に敵を「かぶらん」とするを無二無三に「寄り」て鞆ノ平の勝はさもあるべし。
・荒飛に武蔵潟は気合よく立上り突掛けて「左差」となりしが、荒飛は血気盛んの若手なり、勢いに乗じて敵を「極め」んと其のまま「足クセ」を巻いて一心に敵の体に付入り、武蔵は之に応じて堪えしうち双方の体流れしが、武蔵の体先に流れ正に荒飛の勝となりしは大出来の相撲なりし。
・剣山に出釈迦山は、突掛け合ううち出釈迦の腰「クダケ」て剣山の勝。
・入間川に西ノ海は提灯に釣鐘ともいうべき取組、案の如く「鉄砲」にて造作もなく西ノ海の勝。
・梅ヶ谷に立田野は、梅ヶ谷の「ハタキ」にて立田野の体流れしが、梅関の仕方は余りにきびし過ぎて見るさえ気の毒の思いを為したり。
・(中入後)関ノ戸に評判高き一ノ矢は、関ノ戸が立上りざま急に「押切」り、すんでの事「踏切」るばかりに危うく見えしが、一ノ矢はウント堪えて腰を入れ辛く残りて相手を押切りしは仕合わせよき相撲なり。
・布袋どんも三舎を避けるというかの緋縅に達ヶ関は、「寄り」て緋縅の勝。
・高千穂に九紋竜は、「左四ツ」の所へ高千穂右に「上手廻し」を引き「寄り」て勝。
・浦湊に大達は「押切」て大達の勝。
・手柄山に忍川は突張り合いちょっと大相撲なりし、忍川は血気に任せ左を差して遮に無に寄り来たり、手柄山の方危うしと思う折しも土俵際にて手柄は巧みに敵を「うっちゃり」て勝ちしは昔取った杵柄と観客は話せり。
・長山に浦風は「捻ッ」て浦風の勝。
・大鳴門に伊勢ノ濱は「左四ツ」で「寄り」大鳴門の勝。
・その次は今年幕の内に入りし濱ノ音改め友綱に楯山の相撲なり、両力士は仕切申し分なく楯山も目下ながら油断のならぬ若相撲と容易には立たざりしが、辛うじて立上り小手先のせり合いより友綱が力限りに寄来るにぞ、楯山は後の無きを案じ一心に前に出んと同じく力を極めて寄来る敵を押戻さんとする時、自ら腰「クダケ」て斜めに体前へ流れたり、この時友綱の体も同じく前へ流れしが楯山の方先なりしを以て友綱の勝は感心感心。
・両三日内より西京の海山、隅田川及び秋田相撲の鳥ノ海もスケにて取るとの事、鳥ノ海というは南部の出にて千鳥川と張り合いし評判の力士なりとぞ。
・また今度高砂の弟子にて毛谷村六助という力士が出来し由なるが、定めてこれもヒレものなるべし。
大関の楯山が敗れましたが、他はほぼ順当な結果と言えるでしょうか。緋縅は布袋さんも遠慮するほどの太鼓腹。毛谷村六助(けやむらろくすけ)は豊臣秀吉の前で相撲35人抜きをしたと伝わる昔の武士で、芝居や講談などの題材としてよく取り上げられていたようです。その人物の名前をそっくり頂いた力士ですが、当時としてはかなり立派な体格で注目されていたようですね。ヒレ者とは体格の立派なことを指します。大阪関脇の海山(かいざん)が明日より登場。スケとは助っ人という意味でしょう。
明治17年春場所星取表
毛谷村六助