○回向院大相撲
・昨日同所八日目の相撲は申す迄もなき梅と大達の顔触れなれば、何ともはや申し様なき大入にて、正午頃には早くも客止めをなしたり、思うに昔時稲川鉄ヶ嶽の相撲に付いて今に残れる浄瑠璃の表にピッシャリ貼紙の張裂く木戸口押合いへし合い集まりし見物は前なるを叩き込み後なるをショイ投げるなど、イヤハヤいうも更なる雑踏は以前の大場所も斯くはあらじと年寄りたる好角家が物語りし、さればにや場所の四方土間の辺りは雑踏を制するため数名の巡査押合う人を制し、且つ両国橋の東より回向院の表門迄は同じく巡査の車を制して其の通行を止むる程にて、余は云わずとも推しねかし。
・(中入前)山響は山分に、三芳川は播磨洋に、雷震は大纒に、山ノ上は五月山に、柏木は剣島に、梅ノ春は荒玉に、栄松は器械舟に、勢力は八ツノ浦に、響升は二本松に、竜門は玉桂に、千年川は泉瀧に、若湊は兜山に、五所櫻は千草山に勝。
・三日月に黒雲は預り、五十崎は島田川に、取倉は茅田川に、岩ノ里は浦湊に、綾浪は桐山に勝。
・八幡山に藤ノ戸は立上るや八幡は左を差し、右に前袋を引き付け入りて得意の足クセにて勝を得たりしが、藤ノ戸は相手に踏切ありとて物言付け場面を預り、勝点は八幡となりし由、さりとは無理の物言ならずや。
・平ノ戸に嵐山は引張り込もうという途端、突張て平ノ戸の勝は上々。
・出釈迦山に増位山は、左四ツより上手を引き寄倒して増位の勝はよろし、思えば丁度五年跡、両人が春場所の顔触れにて大相撲となり行司溜りで双方が気絶せし事ありしが、今更話しの種とはなりぬ。
・鶴ヶ濱に手柄山は鶴が突張り来る所、体をかわして押切り手柄の勝は最も巧者の取口なりし。
・千羽嶽に綾瀬川は左四ツとなり綾瀬は下手ミツを引き、後なお上手さえ引き一揉みして相手を引立て釣上げつつ櫓に行こうとする所を、千羽は一心足クセにて防ぎしが残って千羽も左にミツを引き、大相撲にて水となり大喝釆を博したりしも、後同様にて引分けは先ず先ず当日中屈指の相撲なりき。
・緋縅に鞆ノ平は左を差して押切り鞆の勝なりしが、緋縅は踏切てからイヤという程鞆の横面をハリしは、いと可笑しかりし。
・高千穂に知恵ノ矢は、知恵ノ矢が高千穂にハジカレしも踏切らず、体を一周りせしは流石に見所ある相撲なるが、詮方なく出て来る所をハタキ込んで高千穂の勝はさもありなん。
・西ノ海に大鳴門は、西が左を差さんとするを巻込で殺し、大鳴門が差したる左を右に巻きヨイショとばかり揉合いし後、離れて今度は四ツとなり大鳴門は上手に前袋を引き攻め、ついに西は右にて此の前袋を引きし敵の右を殺し一大相撲となりしかど、取り疲れて水となり後離れて突掛け今度は西が大得意敵の左に泉川を極め、攻め立てしが勝負なく引分け。
・廣ノ海に勢は、左四ツ投げの打合い残って勢下手投げに行きしに、なお残る所を又も足クセに行きしが、己の体潰れすなわち掛倒れて廣ノ海の勝。
・海山に友綱は、首投に行く所を海山突落して勝。
・一ノ矢に柏戸は、柏戸が寄来る鼻を一ノ矢が巻き落す様に見えしが、柏戸に団扇の上り物言となりにき、此の物言は無理ならで一ノ矢に踏切は更になき様に思わる、されど是非なく預りたり。
・常陸山に上ヶ汐は、常陸が右を差して行き上ヶ汐は右に敵の差し手を押さえながらハヅに構い空き手を殺し合い後、上ヶ汐は二本差して両ミツを引きたるに、常陸も今は詮術なく敵の両手を巻きつつ防ぐのみなりし、此の時一杯一杯と溜まりよりの言葉ありしも、ここで水がはいる時は再度組んでヨイショとなり上ヶ汐が寄切るは必定にて、防ぎにくき組手となり常陸のためには大迷惑と気遣う観客、その通り行司庄五郎が今少しといううちに一揉みして常陸山は右に敵の左二の腕をしっかと押さえし時、ここで宜しと水になりしが後、上ヶ汐が寄る時常陸はすんでの事に踏切らん有様なりしが、足クセにて此を残しついに引分は当日の大相撲なり。
・高見山に剣山は、矢ハヅにて高見は踏切り剣の勝、力負けは詮方なきもの。
・さて其の次の取組は昨年の大場所以来、来年来年と云って鬼の笑うも顧みず言い囃したる大達に梅ヶ谷(今更場内の模様はいう迄もなければ略す)、両力士は気合宜しく立上りて左四ツとなり、空き手は互いに巻き合いて押しも押されもせず土俵の真中に突立ちて、何の事はない土俵へ眼鏡橋を架けし様にて動かばこそ、互いに大事の大事と軽はづみせず仕掛る相撲を待つのみにて水となり後ついに引分たり、評あり曰く、一向力の入らぬ相撲と是れ誰が目にも斯くの如くなるべし、されど斯く四ツとなりてもし一方より動くあらば果たして仕掛けたる方に損あって待つ方に益あり、記者此の相撲に付いて別段評を下さざるなり。
・此の日、雑踏のために東上げ桟敷二三間は落ち入り、野次馬連のために怪我せし人もありし様なり、又打出してより両国の橋は暫時往来止まり吾妻橋を廻りて帰宅せし人も随分ありしという、さて明日は千秋楽にていつもなれば二段目以下の取組みばかりなれど、本年は平日と同様幕の内も取る事になるやの説あれど未だ判然せず、また目下相撲流行の折柄とて上州前橋ならびに高崎其の他の地方よりは泊り掛け或は一日掛けにて回向院の大相撲を見んと出て来るものもおびただしく、ために上野高崎間の汽車は一層乗客多き由なるが、殊に当日の勝負付けを電信にて国々へかける者も少なからざるより、両国の電信局にては午後五時過ぎ頃より毎日意外の繁忙を来たすよしなり。
○木挽町の花相撲
・来る二月五日より晴天八日間、木挽町三丁目に於て相撲興行の旨を昨日友綱良助より其の筋へ出願したり、また此の一行は右の場所を打ち上げ次第八王子南横山町に於て興行する由。
○祭典相撲
・前号に記せし来月一二の両日、本所緑町二丁目旧津軽屋敷跡に於て宿禰神社祭典相撲を催すに付、宮方を始め大臣参議各国公使の来臨を仰ぎたるに、いづれも承諾せられし趣に聞けり、右に付き当日高砂浦五郎の宅を以て右の方々の休憩所と定めたり、また一昨日同催主たる五條為栄君より招待状を小社へも寄贈せられたり。
大一番の顔合わせが再び組まれましたが、両者慎重だったようですね。梅ヶ谷は休場明けでもあり同じ相手に連敗出来ないプレッシャーもあるので、勝負に行かれないのは仕方のないところです。しかし相撲人気は大変な事になりました。昭和戦前の双葉山時代には開催日数を増やす事で対応しましたが、この当時は力士数も多くないので日数を増やすと大関が十両下位とも対戦することになり、日数延長は無理でしょう。結局千秋楽の相撲もいつも通りに幕内は取り組みませんでした。
明治18年春場所星取表