○回向院大相撲
・咋日三日日の相撲は上景気、されど前日以来物言の多きゆえ案外に手間取り、番数も沢山抜いて取組の休みとなりしもの多し、殊に鞆ノ平と千羽ヶ嶽の物言は双方熟談出来ず、兎に角あとの取組に差し支ゆるを以て其の場面を預り、打出し後の話にせんとて土俵だけは事済みとなりしが、これがため打出しになりても勝負付が出来ず年寄及び右鞆千羽両人の師匠等は種々奔走して全く事済みにせんと心配せり、此の中相撲報道者も本紙印刷の都合あるを以て其のまま場所を立ち去りしが、その後預りとなれり。
・友綱に嵐山は、嵐が友の左を引張り込むを泉川に極めて揉行き足クセにて勝たんとするを、友綱は一生懸命防ぎつつ寄行き、嵐山にちょっとの踏切ありしが心付かず、此の時双方の体離れしが嵐山は手早く突張り送り出して勝のつもりなりしも、如何せん前の踏切にて負けとなり物言付かず残念の様に見えたり。
・柏戸に常陸山は、常陸柏戸の右を左に殺して我が左を差しミツを引き居るにぞ癇癪持ちと名を取った柏戸が我が右を殺され差されぬを忌々しく思いてや、差さんとする右を引抜きて敵の首に巻きなお足クセを巻きどうがななって呉れろと首投を打ちしに、却って我が身の腰クダケて体落ち常陸山もヨロメキ土俵を出しに、団扇は柏戸に上りたり、こは間違いならんとの評ありしが案の如く物言い預り。
・浦風に高見山は、高見山右を差し引寄せて下手投の勝。
・そこで前にいう鞆ノ平に千羽ヶ嶽の相撲は、左四ツにて鞆が寄りながら土俵ぎわにて渡し込みし時、千羽は打チャリに行きしも其の体流れ鞆も土俵を出づ、此のとき団扇の鞆ノ平に上るや西の溜に居合せたる廣ノ海高見山大達が物言を付け、また東には剣山智恵ノ矢等が此の物言は無理の極度なりどうしても預りは承知出来ぬと一時間も手間どり、四本柱の大嶽出来山追手風勝ノ浦等奔走するも、事纒まらずさればこそ前の始末に至りしなり。
・智恵ノ矢に大達は、智恵ノ矢こんな事でもしたら万が一勝てる事もあろうかと、立ち際に右を引張り打チャランとするに、大達が付いて行きしかば引張たまま踏切りたり。
・剣山に廣ノ海は、左四ツより剣山首投に行きしに、ぬけて突き手を出し廣ノ海の勝は仕合せよし。
・上ヶ汐に鶴ヶ濱は右四ツにて上ヶ汐は下手、鶴は上手とミツを引き合い、上ヶ汐は得意の足クセを充分に巻きギウギウいうまで攻め立てしが、流石は鶴なり防いで残す事四五度にして土俵を廻りしが後、上ヶ汐が足クセをハヅせしにぞホッと気のゆるむ所を下手投にて上ヶ汐の勝。
・四ツ車に高千穂は、出し投て高千穂の勝。
・大鳴門に海山は、大鳴門が差したる右を泉川に極めて揉みしが、引落しにて大鳴門の勝。
・綾瀬川に西ノ海は、泉川より左四ツに変じ西はスクイ投を二三度試みしが残て、今度は矢筈にて押切の勝を得たり。
○力士荒竹の書簡(四月二十日発)
・下文に記する所は、在米国紐育力士荒竹幸次郎より其の師伊勢ヶ濱勘太夫のもとへ送り越したる書簡中より抄出せしものなり。
・過日、独逸国より当紐育へ渡来の力士ワール・アブスと申す者は身の丈六尺余、目方は私より八九貫目も重き人なるが、私事去る二日(四月)この者と立合い二時間程取組みしも勝負決せざりしに、臨監の警吏が引分くべしとの注意により引分となりしが、同十六日夜再び取組み今度は二時間半程掛かりしも、又々引分と成りたるがため私の評判いよいよ高く、当地新聞紙は日本力士が小男なるによくも大男と取組み引分を取れりとて書き立てたり、しかし日本風の手にて取組まば必ず勝を得べきに、グリコ・ローマンと云える独逸風の手にて余程風変わりゆえ引分となりしは残念千万なり。
・私が先般貰い受けし賞牌は、チャンピオン・メダルと申す金無垢のものなり。
・同伴の戸田川は三月二十日当地出発、香港へ赴きたり云々。
今度はソラキチの方の消息です。当時のレスリングがどのようなルールだったのか知りませんが、二時間とはずいぶん大変そうですね。この年にソラキチはアメリカ人と結婚してそのまま永住します。さて相撲の方は物言いがひどいと見えてこの日も十両力士の取組がいくつもスッ飛ばされた形跡があります。現在でもプロ野球などで長い抗議が起こることがありますが・・・当時の行司や勝負審判はあまり権威が無かったのでしょうか。現在はビデオも導入しておりここまで揉めることは有りえません。
明治18年夏場所星取表