○回向院大相撲
・昨十三日(六日目)は御喪期も全く相済みし事とてにわかに貴顕紳士の来観多く、殊に二三総見物のありたれば午後には桟敷も客止めとなり上々の景気なりし。
・大戸川に淀川は、突き出して大戸の勝。
・鶴ノ音に両國は、両の一本背負い外れて鶴の突きに敗を取る。
・御舟潟に熊ヶ嶽は、熊の泉川にかかって御舟土俵を割る。
・鳴門龍に最上山は、鳴門出鼻を右で差しすぐ下手投げを打つも最上よく耐えて廻り込み、下手の打返し見事に極りて最上の勝は案外なりし。
・勝平に利根川は幕下の好取組、勝立ち上り一本背負いに行くを利根モジッて引解き下手投げに行くを勝は残してハタキの極まりしが、土俵の狭く飛去るや踏越ありて勝の負は遺憾なりし。
・松ノ風に谷ノ川は、谷右四ツに組み松の上手投を谷腰に受け、廻り込んで掬い投げを試みしが松は踏ん張り谷の気息を窺い上手投げを打ちしが、谷は辛くも土俵際にて残したれば、かえって松に踏切りありて負は大角力。
・常陸山に玉風は劣らぬ破竹の勢いなるが、玉は右四ツになり常は右差しにて寄るを玉は危うく踏み堪えて呼吸を休め居る隙を、下手にて釣し土俵の外へ持出さんずるより玉は泳ぎて防ぎしも、常は面倒なと云う風にてフイと離せば玉の腰砕けて落入りしは流石に幕下横綱の技倆なり。
・高浪に越ヶ嶽は、高の左差しを越は巻き右は互いに殺して揉合い、ついに寄切りて高の負は是非なし。
・鬼ヶ谷に北海は、突合い突き出して鬼の勝は呆気なし。
・天津風に千年川は、病気で休み。
・不知火に當り矢は、不知右四ツとなり當は右を当てて掬い投げを打ちしが不知残して攻め合い、寄ると見せて一寸体を引き透かして右手を敵の首に巻き落したる手柄は不知の得意なり。
・小松山に狭布里は、狭の左差しを小松は巻き右は殺し合いしが、ついに狭は突込み襷に掛けて締め付けると見る間に右内掛けにて巻き倒し、狭の勝と団扇は上りしが同体に落ちしとの物言い付きて丸預り。
・谷ノ音に大見崎は、立上り谷例の足クセを仕掛けしも大は右差しにて体を引き防ぎたれば、谷は二度まで仕損じて体の浮き居るを苦もなく振って大の勝は谷の大不出来。
・梅ノ谷に源氏山は第一位の好取組、いづれも念入り仕切り立ち上りて梅は右四ツに右後ろミツを取り十分の組み方に源は手なく右上手より巻き前袋を取って釣らんとの注文も梅は腰を振って取らせず、押合いのままにて水入後引分は双方とも骨の折れし割合には面白からざりし。
・鳳凰に逆鉾は、鳳は昨年の場所に失敗せし強敵とてようよう固くなりて立ちも悪かりしが、逆の両筈に押し来るを土俵わずか三寸程にて受止めし途端、右の腕を取ってねぢれば逆は二の突きを入れんとする矢先なれば力足らずして見事に捻られ鳳の勝はあまりに脆かりし。
・大砲に朝汐は、朝の指痛みにて休み。
・中入後、北國に金山は、金は二本差しの大櫓にて持ち出したり。
・境嶽に岩木野は、左四ツにて挑み境は釣って団扇を取りしが、境に踏越しありと物言いつきて預りとなり星は五分五分。
○相撲番付の大改良(1.6)
・大相撲番付面に登載せらるる幕内力士は近年すこぶるその数を増し選択疎略に失するの嫌いあり、その昔寛永の頃にはわずかに七八枚に留まり力量抜群なる者のみを選抜する事となり居りしが、明治の初年に至りその数増加して十一、二枚となり同じ十五六年には十四、五枚となり、同じ十九年よりは十七枚となり、そのうえ張出まで出来たれば幕内の欄内は頭数のみ多くなりその力量は昔の二段目十枚の者に劣れる者少なからず、これ実に斯道のため悲しむべきの現象にして畢竟カ士の数乏しきを告ぐるの致す所なるべけれど、要するに近時地方へ出稼ぎするもの幕内の力士なりという時は行く先々の売れ行き良きため自身も早く幕内に昇らん事を望み、協会に於ても容易に幕内に列せしむるの傾きありて、かく多数の幕内力士を生ずるには至りしなり、されどこの有様にて長く押し行かんにはその実際の力量を磨くもの自然減退するの不結果を生ずるに至らんも図られずとて今回の大相撲よりは厳重に力量を検査する事となり、力量劣等なるものは会釈なく幕下に下し、来る五月大番付には幕内東西十二枚ずつに減じ、なお進んで十枚に減ずるの方針を採る事に決したれば、カ士等はいづれも幕下に落つまじき事を祈り必死となりて腕を鍛え居る由なり。
○角砥雑俎
・角觝年寄清見潟又市は先頃門弟の勢力に年寄株を譲る契約整い、その準備中検査役の改選ありて清見潟が当選し直ちに就任したるより、勢力は大いに立腹して約定違変を責めけれど清見潟は当選せし以上は譲り難しと断りしかば勢力は角觝協会に対し清見潟の不都合を訴えしが、同会にては未だ清見潟より何等の届出なければ当協会にては採用し難しと書面を却下しけるより、勢力も致し方なく泣き寝入の姿なり。
・この場所より平年寄にて部屋持ち年寄に加入したるは音羽山(梅垣)、待乳山(勝平)、天津風、玉ノ井(高浪)、放駒、立浪、大嶽及び木村庄之助の八名なり。
この場所、平幕は14枚目まであります。当ブログが始まった明治13年夏場所は9枚目まで。明治初年は7枚目までで、三役を加えれば幕内は計10枚だったということになります。いつの間にかどんどん増えてきましたが、問題視する声もあるようです。当時は一門別に分かれて巡業、中には小相撲と言われるような本物の幕内力士不在の巡業もあったでしょうから、幕内力士の量産は興行上の事情が大きかったようです。本場所は年間2回しかなく、巡業の占める割合は時間的にも収入的にも大きかったと思われる時代です。また相続の問題、トラブルは古今つきもののようです(;・ω・)現役の十両力士や行司などが部屋持ち親方になるというのも当時は決して珍しくなかったようですが、現在ではありえません。さて土俵の方、好調鳳凰が逆鉾を下して大関の貫禄。同じく好調朝汐は指の負傷により休場してしまいました。
明治31年春場所星取表