・一昨日回向院の相撲は日曜日ゆえか、北風の激しきにもかかわらず見物は無慮三千余名も見受けられたり。
・番数のうち小武蔵に稲ノ花は双方評判の好男子、わけて贔屓沢山の若手なれば名乗の揚がるや喝采の声満場に響き渡りて、今にも小屋の崩るるかと思うばかりなりしが、やがて双方仕切も立派に立ち、小武蔵は利き手の左を差し右にて下手より廻しを取り、稲ノ花は右にて上手より廻しを取り左にて相手の右腋にはづみを構い、互いに押し合いて居たりしに、稲ノ花は巧みにも左手を差し替えたれば小武蔵は叶わじと是れまた右手の廻しを放して差し替えんとしたるを、稲ノ花は一杯に引寄せ其のまま「グット」寄りて勝を得たり。
・竜ヶ鼻に立田野は、立合際立田野は左を差ししばしが間もみ合いて腰を入れ、差し手を利かせて見事に相手を投げたるは立田野が名代の「腰投げ」に掛りしものと知られたり。
・千勝森に高千穂は立合難なく二つ三つ刎ね合い、高千穂の右手が入りしを其のまま千勝森の体、地を離れて土俵の外へ出でしは「釣り出し」て高千穂が勝たるなり。
・緋縅に浦風は立派に立合い、浦風は二ツ三ツぶつかりて双手を相手の腋下に構い金剛力を出だして押し切りしに流石の緋縅も支えかね二足ほど下がる所を浦風は得たりと離れて突っ掛けしに、緋縅はますます退きあわや踏み切らんとせしが、いかなる隙のありたりけん、緋縅は右手を揚げ相手の肩口を「ハタキ」ながら体を振り向きしかば、浦風は体を前へ流し相手の腹袋に弾かれて踏み切り、緋縅の勝となりしは浦風のため惜しむべき勝負というべし。
・常陸山に柏戸は念入れて立合い、常陸山は左を差して廻しを取り、柏戸は右にて此の手を巻き左を差して「ハヅミ」を構い、柏戸は相手のようやく疲るるを待つ様なりしが、常陸山は右も廻しに掛けひたすら釣りて勝たんとあせるを、柏戸は機を計りて腋下に差せし左手を転じて相手の廻しを取ると其のまま一つ引寄せて左足を外より相手の足に掛け、それにて常陸山が腰を折る所を、得たりと「アビセ」て柏戸の勝。
・桐山(荒角改)に勝ノ浦は、桐山が「首投ゲ」を外して尻餅をつきて勝ノ浦が勝。
・稲川に荒虎は立合難なく、荒虎は左を差して廻しを取り「投げ」を打ちしが腰浅くして利かず、又「四ツ」となりて揉合ううち荒虎が土俵際まで押したるを稲川は上手より「引キマワシ」たるに荒虎は体を崩して踏み切り、稲川の勝。
・鞆ノ平に島田川は造作もなく立合い、島田川は立合際より無闇に「突張」りしを、鞆ノ平は苦にもせず右を差してひと「釣り」に持ち出だし鞆ノ平の勝。
・井筒に手柄山は双方老練の力士なれば念入れて立合いしに、井筒は雷の如く荒れ出だし引くやら「ハタク」やら土俵一杯に取りしが、やがて「四ツ」となりしに、手柄山は得たりと押切り相手を土俵の外へ捻り倒し手柄山の勝。
・司天龍に勢は司天龍が勝。
・(以下中入後)大達に上ヶ汐は双方勝ち気十分の力士ゆえ双方仕切りも大きく、立合うと上ヶ汐はひと「突張り」呉れて突掛しが大達は中々に動かずじりじりと進むものから、上ヶ汐はすんでに踏み切らんとせしを際どくも土俵を廻り、手を働かせて組ませじを綾なすを、大達は一声ヤッと相手の左手を抱え左にて突張りて押し切り大達の勝ちしは矢張り「ナタ」という手にてありしか。
・千羽ヶ嶽に西ノ海は花やかに立合い、千羽ヶ嶽は左を差せしを西ノ海は此の手を抱え振り廻さんとなすを、千羽ヶ嶽は堪えて其のまま押切らんとして西ノ海は少し押さるると見えしが、抱えし手を引きて相手の体を崩し其のまま「アビセコミ」て西ノ海の勝。
・出来山(大纒改)に武蔵潟は立派に立合い、武蔵潟は二本とも引張り込みしに、余り深かりしゆえか出来山は肘を張りて押し切り「アシクセ」を巻きしに、武蔵潟は既に腰を折り体を落とせしかど、出来山は真下になり潰れて武蔵潟の勝。
・達ヶ関に若島は立合申し分なく、達ヶ関は十分の気合にてドンと一つ受けしに、若島はいらちて突掛かり来るはづみに達ヶ関は体をかわしながら「ハタキ」しに、若島は体を前へ流し土俵の外へ手を突きて達ヶ関の勝。
「突っ張り」は今でいう突っ張りの他にも、相手に手をあてがって自分の腕をつっぱるようにして相手を押し込む、という技の呼び名でもあったようで、大達(おおだて)の相撲はこの突っ張りだと思われます。西ノ海(にしのうみ)は京都相撲から新しく加入した力士で、今場所が初登場。番付外の力士は2日目から出場するのが当時の決まりでした。のちに番付面に史上初の「横綱」を冠することになる、初代西ノ海です。
明治15年春場所星取表