○回向院大相撲
・昨日同所千秋楽の相撲は、流行の今日なれば以前の十日目と違い中々の景気にて観客の数もいと多かりし。
・(中入前)大纒は玉桂に、荒玉は器械舟に、勢力は五月山に、八ツノ浦は五十崎に、竜門は響升に勝、播磨洋に黒瀧は引分、岩ノ里は千草山に、若湊は五所櫻に、兜山は藤ノ戸に、綾浪は泉川に、取倉は三日月に、黒雲は桐山に勝。
・(中入後)神田川は達ノ里に勝、柴の山に朝日川は引分、粂山は祇園山に、有明山は綾瀬嶽に、天拝山は神風に、信嶽は小車に、宮ノ松は四剣に勝。
・小金山に若の森は、渡し込の崩れ押切て小金の勝。
・鳥ノ海に鷲ノ森は左を差してスクイ投、鷲ノ森の勝。
・(以下三役)藤ノ森に朝日獄は左四ツとなり、朝日は上手藤は下手を引いての大相撲なりしが、ついに水となり後引分たり。
・頂に司雲竜は、左四ツにて頂より相撲を仕掛けスクイ投行きてツレシ司雲竜の勝なりしが、物言付いて預りとなれり。
・白梅に平ノ戸は首ヒネリにて白梅の勝。
・右にて当場所の相撲を終わり弓取の役は神田川これを勤め、目出度く打出したり。
○一室たちまち土俵に化す
・四五日以前の事なりとよ、黒田内閣顧問にはかねてご贔屓いと厚き梅ヶ谷大達西ノ海なんどいう名ある力士五六名を引き連れて日本橋区高砂町の万千へ赴かれ酒宴を開かれしが、その酣なるころ同公にはつと立ち上りて傍えの広間に進み出でられ、下婢に仰せて水を取寄せ、手づから座一面に打ち水し、さて云わるるよう余も此の頃は殊のほか用事沢山にて、好きの相撲さえ久しく見る事のなかりしかば今ここにて一番勝負を決して見せよとありしが、土俵と違い座敷の事ゆえ力士もこれには当惑しつ皆な後づさりて、この儀ばかりは平にご免を蒙りたしと願うもいかで聞入れらるべき、一方に座を構えここにて見物なさんいざいざとせき立てられて力士も今は辞し難く、さらば仰せに従わんと梅関も大達関も衣を脱いで東西に分れ、仕切見事に機合いを窺いヤッとばかりに立ち上り、左四ツの大相撲となりしにぞ一座の中はたちまちに回向院の大場所と変わる騒ぎに、同家のものはびっくり仰天かねてより君のご気質は承知し居れど、かの物音はそも如何なる事の起こりしにやと密かに座中の様子を見れば、こはいかに梅ヶ谷と大達が一心不乱立合いの最中なれば、是れはとばかり又々びっくり、かかる内にも双方の力士は術を尽くして揉合いしが先日の大場所と同様に勝負の果てしあらずして取り疲れたる息づかい、このとき公には此れにて宜しと中に入りて自から引分け、アー愉快ジャ愉快ジャとこよなく打ち悦ばれ、大きに座を騒がしたりとて金五十円を楼主に与え前の力士共々そこを立ち行かれしと、投書のままを斯くは物しつ。(2.5)
黒田清隆(;・ω・)無邪気というかわがままと言うか・・・しかし明治の新時代になっても大相撲が生き残って来れたのはこうした政府要人が相撲ファンであったおかげとも言います。ところでこの場所、初めて星取表が載りました。他紙がいつから星取表を載せるようになったか分かりませんが、元々相撲記事の詳しい東京横濱毎日新聞ですから相当古い部類なのではないでしょうか。星の下はひらがなで対戦相手の名前が書かれています。これ以降毎場所この形で幕内と十両の星取表が載るようになります。
明治18年春場所星取表